読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Mike's Blog

これまで読んできた本を引用を含めて紹介します。 Introducing books I have read including citation http://www.arsvi.com/w/km18.htm

伊丹敬之『創造的論文の書き方』を読んで

 

創造的論文の書き方

創造的論文の書き方

 

 論文を書く際の必読本です。以下に重要と思われる箇所を引用します。

・「いい研究」とは、多くの人が意義があると思える原理・原則に、たくみに迫ったものである。そして「いい文章」とは、自分が発見したあるいは自分が真実と考える原理・原則がなぜ 真実と言えるのか、説得的にわかりやすく述べたものである。(p.2)

・仮説として何が正しそうかを現象から逆算して懸命に考える。断片の情報をつなぎ合わせて、その仮説が正しいという論拠・証拠をつくってみる。それが研究活動のトータルな内容である…仮説を生み、仮説の正しさを論証することが研究というエルーシブゲームなのである。そこで生み出される仮説は、意義の深いものでなければならない。多くの人がなるほどその仮説 は大切だ、面白い、と思えるものでなければならない…何らかの意味で多くの人が意義の深いと思える仮説でなければ、それを考え出して他人に伝える意味はあまりない。ましてや、 その仮説の正しさを論証することのエネルギーを使う意味はない。(p.3-4)

・たくみであるために創造性が必要で、そしてたくみであることが創造的なのである…思いついた仮説の正しさを論証するプロセスにもたくみさは必要である。それは、証拠の見つけ方 とそれらをつなぎ合わせて論拠としてまとめるまとめ方のたくみさである。証拠の目のつけ方のたくみさであり、人を説得する論理を組み立てるたくみさである。そこにも、創造性が現れる。(p.4)

・創造的論文とは、仮説の発想と仮説の論証の二つの創造性が豊かにある論文のことである…しかし、研究プロセスでのこうした二つの創造性が豊かにあっても、論文の文章表現が きちんとしていなければ、その研究の創造性は読み手に伝わらない。だから、わかりやすく、説得的な文章を書くことが要求される…わかりやすい、ということは理解がしやすいと いうことである。他人に伝える道具としての文章にまず第一に必要な条件である。その上に、「説得的」であって欲しい…他人が納得してくれるステップをきちんと踏んだ文章、納得 せざるを得ないような力をもった文章。それが、「説得的な文章」である…いい論文とは、そこで報告されている研究内容に創造性があり、かつ文章として説得的でわかりやすい論文の ことである…そうした論文を書くためには、二つのプロセスが必要である。一つは創造的な内容をもった研究をすること。もう一つは説得的な文章を書くこと。(p.5)

・社会現象を社会科学的に説明するというのは、二つのステップが必要だと思う。第一のステップは、理論的な命題でかつ現実に対応関係がありうるような命題を発見すること。第二のステップは、 この理論的命題が現実に妥当することを他人に説得をすること。説得するということは、他人が納得するような何らかの証拠を提出する、ということです。したがって、最初にクリアーな理論的 命題が出てこなければいけない。二番目に、そのクリアーな理論的命題が現実ときちんと対応しているということを、読んだ人が説得されなければ駄目だ。(p.42-43)

・ある理論的命題が現実に妥当していることを他人に説得する方法は、三つある。一つは、データをものすごくたくさん集めて…大量データがあるから信じてください。これが、統計的方法が指向している基本的な説得の仕方です。 あるいは、歴史的事実を積み重ねて説得しようとするやり方も、統計分析ではないかも知れないけど、基本的にはデータの累積のパワーを説得材料にしている。二番目は、かなり演繹的な、公理論的な説得の仕方です。まず、誰しもが認めそうな理論的な前提を置く。その前提の上に演繹論理を積み重ねていくと、この理論的命題が正しいということになる、と論理の展開をきちんと説明する。 そして、おそらく現実はその前提としたものを満たしていると思うから、したがってこの理論的命題が現実に妥当しているはずである、と説得しようとする。この説得方法で人々が納得性を持ったり 説得されたりするのは、最終的な理論的命題が出てくるまでの複雑な論理操作が間違いなくたくさん行われている、その論理操作の複雑さ、こんなに頭のいいことをちゃんとやったのだから、 信用しろ、という話になるからです…第一の方法は、こんなにデータを集めたのだから信用してくれ、ということです。第二の方法は、こんなに頭よく長い論理をつくったんだから、信用 してくれ、ということです。三番目が、データの切れ端を少しずつ集めて、それらを論理でつないでいくと、大体こういう絵になる、だからデータの切れ端と論理の全体の合わせ技で、説得的と 思ってくれ、という方法です。ここにこういうデータがある、あそこにもこんなデータがある、全体が論理的に説明できる理論的仮説はこういうことですから、この理論的仮説はたぶん正しい と思ってください、という説得の仕方です。(p.46-47)

・人に読んでもらう論文というのは、ある意味でプロとして人に読ませる論文でなければいけない。そうすると、読み手の側に立って、この論文でどういう結論が出てくるのか、ということを 最終的には伝えるのが目的である。どうしてその結論が出てくると言えるのか、ということを説得するプロセスが論文だと。そのつもりで論文全体を書かなければいけない。(p.69)

・最終的には分かりやすく書かれた、論理の流れがしっかりしている論文を書く際にも、そんな最初から構造が自動的に生まれてきているわけじゃないし、最初からそういう構成があったという こともない。出来たものが論理的に流れているのは、リニアーにしか読めない人間用にわかりやすいようにすると、結局論理的になったという結果です。特に初心者の人は、必ずパーツを書いて しまうというところから始めることを、ぜひ私はお勧めする。パーツを書いてしまったあとの、そのパーツをどうつなげればいいかという編集作業が、実は全体の論理の流れを作り上げることで、 それは鳥の目の作業なのです…書いてしまって、つながりが悪いところは、絶対何か論理が飛んでいるんですから、埋めるものをあとで書けばいい。あるいは、最初は一塊に書いたものを バンと半分に切って、この半分をこちらに付けると全体の論理が流れていくとかね。そういう編集作業ですよね。それがものすごく必要ですね。(p.74)

・何とかつながりがあるようにしなければいけない。そうすると、これを考えていなかったことがいけなかったのかと、考えるべきことが新たに生まれてくる。 そういうステップがあって、初めて真っとうな内容に変わっていく…そうやってみて、さっき言ったように、部品あるいはパーツができた、ではどうやって 論理的につなげるのでしょうか、と悩み始めて、まだ調べていないことがあった、考えなくてはいけないことがあったと、気づく。そこで、今度は書くプロセス から外れて、またリサーチをするプロセスに戻って、その穴を埋める。それで、今度は本当に論理構成がしっかりしたなというので、また文章を書き始める。 すると今度は、もう少し細部の論理の穴、つながりの悪さが見えてくる。そこでまた埋めるという作業を始める。あるいは構成を変えるという作業が始まって、 半ばリサーチに戻るようなことも起きる。そういう繰り返しの末に、やっと最終版が書けるようになる。(p.77)

・なぜそのシンボリックな事実、あるいは印象深く観察された事実が起きたかを自分なりに「深く」考えてみることである…「深く」とは、別な言葉で言えば、 「なぜを三回、問うてみる」と言えるだろう。Aという事実があった。なぜそれが起きたのか。Bという原因があったのであろうと論理的推測をする。では、 なぜBということが起きたのか。それにはCという原因とDという原因が考えられる、というような論理的推論をしてみる。そして、さらに、第三段目として、 CやDがなぜ起きたのかを考えてみる、それが、「なぜを三度、問う」ということの実際である。(p.160-161)

・データによる主張の際に基本的にとるべきスタンスは、「誠実さ」という古くさい言葉のように思う。データの限界に対する慎重な誠実さ、しかし一方で ぎりぎり仮説を主張したいという積極的な意味での誠実さ。データと仮説の精度合わせ、レベル合わせなどの「かみ合わせのよさ」についての誠実さ。 そうした当たり前の誠実さが必要とされる。(p.166-167)

・論文は…読み手の立場に立って、読み手がきちんと自分の言いたいことを 理解できるように、何をどう書くかを考えなければならない…読み手が読み進んでいくにつれて、読み手の頭の中に自分の言いたいことの筋がイメージ できるようになるまでの、ステップを作り時間を掛ける必要がある、読み手が順を追って理解しやすいように書くのである…論文で文章に表現されるべき ことの本体は…仮説と証拠である。そして、仮説と証拠の背後にあってそれらをつないでいる論理である。(p.187)

・正確な文章とは、三つの条件を満たしている必要があるだろう。一つは、一つの文章の内部で論理矛盾がないこと。第二に、文章の中で使われている概念や 言葉の定義が明確であること。その文章の中で定義されている必要はないが、読み手に明確になっていること。第三に、日本語として正しい文章であること。 それは、主語、述語、最後のセンテンスでの終りの意味、などが明確で意味が通る分掌だと言うことであり、かつ言葉が的確に(過不足なく)選ばれていること である…文章の書き方の第二の注意は、つながりを強く意識すること、である。一つの文章の中の言葉と言葉、一つの文章と次の文章、その文章が含まれている パラグラフと次のパラグラフ、そうしたさまざまな「間」のつながりを強く意識して、かならず論理的につながっているように書くことが必要である…別な視点から言えば、つながりを強く意識して書くと言うことは、一つの文章と次の文章の間の距離を短くして、「密に」書くことである。論理を飛ばさず、 濃く丁寧に書く。ただし、そうして密に書くと、時としてくどくなる。不必要に長くなる。そうなったら、後で剪定作業をすればいい。(p.220-221)

・読み手のための「本体の最終点」としての意義が、止めのもっともわかりやすい意義であろう。論文で言いたかったことの、再確認でありそして強調である。 単純な繰り返しだけでなく、せめて濃淡をもって強調点をもうけてほしい…さらに一歩進んで、読み手のための「先の展開の出発点」としての止めの 意義がありうる。論文で書かれた内容から敷衍していくと、さらにその先にどのような先の展開がありうるか、その「案内図」を止めが提供する、という意義である。社会科学の論文の場合、案内図としては、政策的命題を言うか、理論的命題として言うか、現実の解釈論を言うか、その三種類のいずれか(あるいは複数) が多いようである。政策的命題をいう案内図とは、論文の本体での議論(あるいは仮説の集合体)から政策論に敷衍するとどうなるか、を述べた案内図である…第二の案内図は、理論的命題をいうものである。論文の本体の仮説と議論の内容からさらに論理的推論を重ねていくと、これこれの理論的命題が示唆 されるように思う、こうした理論体系が作られうると展望できる…第三の案内図は、論文の議論の直接的対象とはなっていない別の現実について、 論文の議論がどのような含意をもちうるかを考えた、現実解釈論としての案内図である…いわば一つの現実の深い理解からの類推によって別の現実の 解釈のシナリオを考える、という案内図である。いずれの案内図も、あくまでも可能性の案内図ではあるが、なんらかの意味で論文であつかった世界から先の 別の世界での展望になっている。こうした先の展開の可能性の案内図を描く作業は、じつは読み手にとって意味があるばかりでなく、むしろ書き手にとっての 意義の方が大きいかもしれない。そして、可能性案内図を描く前段として、論文の本体では何が書かれたかを振り返る作業もまた、論文の書き手にとって意義を 持つことが多い。論文の書き手にとっての意義とは、自分のおこなった研究を大きな地図の中で位置づける作業としての意義である…三つの案内図を 描いてみるという作業は、自分の研究成果が三つの世界(政策、理論、現実理解)で、どのような意味をそれぞれに持ちうるのかを振り返る作業になるだろう。 そして、その自省的思考の中から、自分の次の研究活動をどの方向に進めればいいのかの示唆が得られるであろう。つまり、次の研究の出発点を確認する作業 として、案内図作成は書き手にとっての意義をもつのである。(p.227-229)

・止めが打てて、論文の流れがはじめて完結する。自分の論文の流れの自分自身による深い理解が、その完結点なのである。その完結を見てはじめて、論文の はじまりが書ける。論文の冒頭部分に来るべき、「はじめに」という節が書けるようになるであろう。「はじめに」はあくまで読み手に対する導入である。 それは、導入していくべき全貌が明らかでなければ、書けないはずである。だから、止めを打つことによって書き手が全貌を理解してはじめて、「はじめに」を 書けるようになる。(p.229)